2009/11/20

Vippasana meditation ヴィパッサナ瞑想


随分昔のことですがゴエンカ・ヴィパッサナ瞑想の10日間コースを京都で受けました。

この期間は、誰とも会話をせず、目を合わせるようなコンタクトもとらず、本も新聞も何も読まず、TVもラジオも音楽もなく、外部からの刺激を最小限にとどめた状態で、終日瞑想を続けます。食事と睡眠もおなじく最小限にとどめ、自分の内部を、なにものにも邪魔されずに、まっすぐ見つめる期間となります。



普段の日常生活の慌しさ、TVや広告の騒音や雑音や光と色の氾濫、街の中もお店の中も道を歩いていても、様々な刺激が私達の5感を麻痺させていき、いつのまにか私達は「沈黙」や「静寂」というものをすっかり忘れてしまいます。

私達の心は外部からの刺激に反応します。その反応を物理的なものとして捉え、ただ観察してみます。たとえば誰かがアナタに心無い言葉で攻撃をしたとします。それに対する自分の反応を、そのまま見つめることで、炎のように燃え上がる怒りや悔しさといった感情の波に、あっさりと飲み込まれることが避けられます。

ああ、私は、この人の言葉に反応して、怒りと悔しさが生まれてきているのだなぁ、と観察する。

それだけで、自分自身をしっかりと理解し掌握し、ゆるぎのない強さが生まれてきます。自分自身の芯がぶれずにしっかりしていると、外部や相手を冷静に捉える余裕も生まれてきます。

ああ、この人は、自分の弱さを隠したいが為に、必要以上な攻撃をすることで、自己防衛をしているのだなぁ、と気づくようになる。

人は完璧ではありません。だれもが痛みや弱さ、そして恐怖を抱えて生きています。怒りに突き動かされるように他者を攻撃する人の瞳の中には、たいてい傷ついた悲しみと恐れがゆらめいています。自分の理不尽な感情の波に呑まれることなく、冷静な心で相手に気づいていくと、その人の本質は、目の前で荒れ狂う怒りのコスチュームを着た、小さな子供でしかないことが見えてきます。

自分の内部に繊細になって、ありのままの自分に気づいていく。その繊細な自分の知覚場を自分の外側へ広げていき、相手に対しても繊細に気づいていく。そこで生まれるのは、対立ではなく、底から沸き起こる慈悲の心です。自分に対して、相手に対して、その境界線をとりはらっていきながら、自分の中の、相手の中の、沢山の結び目をほどいていく。溶けてった境界線の向こうにいるのは、アナタのパートナーや肉親かもしれない、特定の他者かもしれない、社会そのものかもしれない、愛犬かもしれない、庭の草花かもしれない、山や海や空や風かもしれない。

10日間の静寂の中、嵐のような自分の内側を探求することによって、海の底の真珠貝の中の光を探し当てた気がしました。その光を持って海面に浮上し、その光をもって自分の外側の世界を照らしていく、それが生きていくことなのだ、と感じたことを覚えています。

しかし一旦普通の生活に戻れば、日常の喧騒の中でのストレスや煩雑な精神活動で、自分の感覚がしだいに鈍磨していきます。過剰反応する自分の心。他者との駆け引きや心理ゲーム合戦。

だけど、こここそが私達の生きる舞台なのです。誰もがリトリートや隠遁生活のような「温室」の中でヌクヌクと生きていけるわけではありません。この現実の中でこそ、瞑想コースの中で見つけた静寂と光を、いかに自身の内に保っていけるか。いかに、その光で周囲を照らしていけるか。おすまし顔で幸福そうに座り、自分の内側だけで完結するのではなく、日常の汚濁の中に静寂と光を存在させることが、ヴィパッサナコースの本来のプラクティスなのだと思います。


わたしは、知ってか知らずか

意識してか意識しないでか

その思いや言葉

あるいは行動で

わたしを傷つけた人々を許します。


わたしは、知ってか知らずか

意識してか意識しないでか

わたしの思いや言葉

あるいは行動で

わたしが傷つけた人々に許しを請います。


すべての生きとし生けるものが

苦悩から解放され

自由になれますように。

真の平安、真の調和

真の幸福を享受できますように。

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